天 恩 寺 |
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| 天恩寺 | 見返りの大杉 |
大字片寄字山下の広沢山天恩寺は、臨済宗妙心寺派、三河地方の中心寺院である。
本尊延命地蔵菩薩。寺伝は足利尊氏の創立、光州永源寺開祖寂室元光を開祖とする。
「天恩寺」の額は義満の号天山の署名があり、義持の祈願寺となってもいて、足利将軍
との所縁が極めて深い。天正年間作手城主奥平家の保護を受け、慶長7年6月16日付けの
家康朱印状も現存する。地蔵堂と薬医門(本柱の後方に控え柱を建て、その上に女梁・男梁
をかけ、切妻屋根をのせた形式の門)とは、室町中期の代表的建築物として、明治40年5月
27日額田町唯一の国指定重要文化財となって現在に至っている。室町の建築は鎌倉期の
ように雄大豪放でなく、また江戸期のように装飾過剰でもない。禅風の洗練された豪洒な
美しさを特徴とする。片麻岩を積み上げた石壇の横長の線が、建築と調和して、見事なたたずまい
をみせている。なお、境内には家康ゆかりの「見返りの大杉」などの古木が茂って、幽邃な
趣を加える。
| 天恩寺略由緒 |
| 開 基 | 貞治元年(1362)足利義満公は足利初代将軍尊氏公の遺命を奉じ、見性悟心禅師に命じて 三河の国は片寄の里に一寺を創立した。 |
| 開 山 | 見性悟心禅師は、その師江洲永源寺開山円応国師を開山し、自らは第2世となられた。 |
これが天恩寺の歴史の始まりである。即ち足利初代将軍尊氏公は厚く仏法を信じ特に延命地蔵菩薩を崇信して
常に祈願していたが、建武二年(1335)矢作川の戦に敗れて一千ず退き乙川の上流に陣取った。
その時片寄に福来寺という寺があり、本尊は延命地蔵菩薩であった。尊氏公は一夜この寺に泊まり
(明日の戦に勝利を得せしめ給へば必ず報恩のためこの地に一寺を建立し奉ると勝利を祈願した。)
然る処、翌日の戦に大勝し、次いで上京し、終に将軍となったが、尊氏公生涯にこの誓文を果たし得ず
子孫に対して必ず三河片寄の里に一寺を建立するように遺言して他界された。
| 中 興 | 応仁の乱後、世の乱れと共に堂塔日々に荒廃し法系道脈も自然に断絶す。天正の頃 作手城主奥平貞能公、名古屋は熱田海国寺より大円妙応禅師を招じて中興せられこれより 天恩寺は妙心寺派となった。次いで奥平信昌公より寺領寄進あり、天正十九年池田照正公 よりも片寄郷を寺領として寄進せられた。 |
その頃 武田勝頼長篠城を囲む鳥井強右エ門の注進により 徳川家康公急ぎ出陣し天恩寺に泊まる。
翌日家康公黎明に出発して石午池畔の大杉のあたりまで来た時、仏殿本尊延命地蔵菩薩「家康 家康」
と呼び止め給ふ、家康公ハット驚き馬を留めて振り返り見れば、その時大杉の蔭より敵方の刺客が矢を
射かける処だった。危うく難を免れたを大いに喜び菩薩の前に三拝九拝し幾度も幾度も馬の上から
見える限り大杉の彼方を見返し遙拝しつつ長篠の戦場へと向かったという。
それよりこの大杉を家康公見返りの杉と呼ぶ。
慶長七年(1602)家康公より寺領百石の寄進あり以後徳川家康家より代々御朱印の下賜あり
明治維新に至る。
足利尊氏公、徳川家康公の御寄依など霊験あらたかな本尊延命地蔵菩薩なれば開運長寿、道中安全
の御仏として遠近の信者多し。
また当寺に祀られる文殊菩薩は、12支の中の卯年の守り本尊として、又智恵、学業成就、入試合格
祈願の仏様として、参拝するあとをたたない。
| お 所 | 額田郡額田町大字片寄字山下33 |
| 電話番号 | 0564-82-2433 |
| 重要文化財 | |||
| 仏 殿 | 貞治元年 足利義満創立 | ||
| 禅風の建築 手法頗雄大 | |||
| 内部 須弥檀亦観るべし | |||
| 山 門 | 建立年代不詳(室町時代) | ||
| 足利中期に属する者の如し | |||
| 我が国に現存する薬医門中最古のもの | |||
| 各種の絵様・繰形必見の要あり | |||
| その他寺宝 | |||
| 扁 額 | 足利義満筆 | ||
| 古代伝法九条袈裟 | |||
| 達磨大師 | 雪舟筆 | ||
| 浬槃像画 | 兆殿司筆 | ||
| 葡萄の画 | 探幽筆 | ||
| 支那古代焼の皿 | |||
| 白隠禅師の自画讃 | |||
| 法華経八巻 | 弘法大師筆 | ||
| 若仲の画 左甚五郎の香炉 徳川家康朱印 山本梅逸の画 山岡鉄舟の書など多数 | |||